満州事変以降の戦争は日本にとって自存自衛の戦争

満州事変以降の戦争は日本にとって自存自衛の戦争

高市早苗「政府歴史見解は、早急に見直されるべき」

前回の記事【【総裁選2021】真の勝者は「高市イズム」】で、現在は自民党政調会長に就任された高市早苗氏が、田原総一朗氏のテレビ番組で「満州事変以降の戦争は、日本にとって自存自衛の戦争だったと思うか?」との問いに対して「セキュリティーの為の戦争だったと思う」と答えたことを紹介しました。高市氏はストレートに答えてはいませんが、日米戦争を含む日本の戦争は侵略戦争ではなく「自存自衛の戦争だった」という歴史認識を持っていることは明らかです。2005年の古いコラムになりますが、高市氏は、このようなことを書いています。

 小泉首相が演説で引用された「政府の歴史見解」とは、次のようなものです。
「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで、国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここに改めて痛切な反省の意を表し、心からお詫びの気持ちを表明致します」
現在の政府歴史見解は、平成7年8月15日に発表された村山富市首相談話をそのまま、その後の内閣が踏襲しているものです。(略)
満州事変に到るまでの張作霖・学良親子の条約違反、日本人に対する挑発行為、米国の中立非遵守、支那事変に到るまでの国民政府軍による辛丑条約違反と挑発行為、太平洋戦争に到るまでの米英両国から国民党政権への爆撃機供与や経済的援助、ABCD包囲網による経済的封鎖、ことに石油の全面禁輸といった挑発行為に鑑みると、日本の行なった戦争を「侵略戦争」と総括するには無理があります。
(略)
先の大戦開戦時の昭和天皇の勅語は「米英両国は、帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与え、ついに経済断交をあえてし、帝国の生存に重大な脅威を加う。帝国の存立つ、またまさに危殆に瀕せり。帝国は今や、自存自衛のため決然起って、一切の障害を破砕するのほかなきなり」としています。

高市早苗コラム 政府歴史見解は、早急に見直されるべきだと思う より

当時の地図を見ればわかりますが、日米戦争前に、日本とタイ以外のアジア諸国はほぼ欧米の植民地であり、日本だけが独立国家でした。そして戦争当時のアメリカの大統領ルーズベルトは以前から日本に対する戦争をしかけようとしていたのです。そして日本は追い込まれて自衛戦争をすることになりました。

日米開戦前のアジアの状況はきわめて複雑であり、日清戦争、日露戦争に勝利した日本は、欧米に加えてソ連と中国(当時の中華民国と中国共産党)も敵にまわしていたため、国際的にも孤立して弱い立場にあり、戦争に対しても慎重だったのです。ここから日米開戦にまつわる様々な情勢を記事に書いていきますが、先に6つの重要なポイントをあげておきます。

(1) アメリカは、ルーズベルト大統領を中心に日米開戦前から対日戦争を準備しており、戦争の起点は日本ではなくアメリカだった
(2) アメリカのルーズベルト政権にはソ連のスパイが多数入り反日政策に影響を与え、アメリカのメディアにもソ連のスパイが入り「日本=悪」という世論を形成した
(3) 中国は中華民国(蔣介石)と中国共産党(毛沢東)の2つの中国に分裂しており、日本と中華民国の戦いを扇動したのは中国共産党と背後のソ連コミンテルンだった
(4) ソ連はヨーロッパ戦線でドイツと戦っており、日本との挟み撃ちを避けるために日本の弱体化を狙い中国およびアメリカと戦わせた
(5) 日本は最後まで日米戦争を避けようとしていたが、アメリカに暗号解読をされ情報が筒抜けで、巧みに開戦へと誘導された
(6) 日米戦争は、日本と米英の対立という単純な構図でみるのではなく、2つの中国とソ連コミンテルンまで含めた複雑な構図でみるべきであり、日本だけが悪者にされた

アメリカ:ルーズベルト大統領が主導した対日戦争

1776年に独立したアメリカは、大陸の先住民(インディアン)の殺戮と土地の略奪によって西部を開拓し、米墨戦争(1846年-1848年)でメキシコと戦い、カリフォルニア、ネバダ、ユタ、アリゾナなどを手に入れました。その後もアメリカはさらに西の太平洋地域に領土拡張を続け、1893年にハワイを併合し、1898年には米西戦争でスペインと戦い(続いた米比戦争も含む)、フィリピンやキューバなどを手に入れます。この流れの中で、アジアの中に残された中国地域と手つかずの日本に対する攻略プランを考えるのは自然な流れだといえるでしょう。

当時も今もアメリカは常に一枚岩でなく、極東アジアの統治戦略には、「悪い日本」を弱くして中国を強くしたい「弱い日本」派(主に民主党)と、「真の敵ソ連」に対抗するために日本を強くしたい「強い日本」派(主に共和党)に分かれていました。

(画像クリックで動画再生)

しかしながら、世界大恐慌が起こり、「強い日本」派の共和党フーバー大統領が経済政策を誤り、1933年に「弱い日本」派の民主党フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領による政権が誕生します。デラノ家は中国清朝末期にアヘン貿易で富を築き、香港にも豪邸を所有しており、ルーズベルト大統領はもともと「親中」で「反日」だったのです。

一方で、この当時、蔣介石は、上海・浙江財閥の娘で流暢な英語を話せる宋美齢(そうびれい)と結婚し、アメリカに派遣して、各地で、ありもしない日本の「悪行」を涙ながらに訴えさせ、「蔣介石は異教徒の日本人と戦う敬虔なクリスチャン指導者」というイメージを作り上げ、アメリカのキリスト教信者を味方につけることに成功しました。

この演出は、ルーズベルトにとっても好都合であり、盧溝橋事件や第二次上海事変などの戦いは中国共産党の工作だったにもかかわらず、「中国に対する日本の侵略」というレッテルを貼り、反日政策を正当化する材料としたのです。そして「侵略国の日本がアジアで紛争を起こしていて,日本を弱体化すればアジアは平和になる」と主張していたのです。

日米開戦の前にルーズベルト大統領は、蔣介石政権に戦闘機とアメリカ陸軍航空隊のパイロットを「義勇兵」として提供して、国民政府軍を装って日本を攻撃するというクレア・シェンノートの案を承認し実行していました。要するに、直接ではなく、蔣介石政権を介して日本を攻撃しようとしていたのです。

1939年9月にヨーロッパでドイツに追い詰められていたイギリスを助けるためにも、ルーズベルト政権は戦争をしたいと考えていました。なぜなら、イギリスが破れたら、ドイツがアメリカを攻撃してくる可能性が高いからです。しかし、アメリカの世論は第一次大戦に懲りて戦争を望んでおらず、ルーズベルトは3選を果たすために、戦争をしないことを公約にしていました。一方で、陰では戦争への準備は着々とすすめ、1940年12月に米国議会は蒋介石の中国国民政府への1億ドルの借款供与案を可決し、翌1941年3月には、大統領の権限で他国に武器や軍需品を売却、譲渡、貸与することができる武器貸与法を成立させ、英国や中国国民政府、ソ連に軍事援助を行いました。「戦争しない」と言って選挙に勝ってから、半年後には戦争に備えた政策を立案・実行していたのです。

1941年には、前述した国民政府軍を装った日本への攻撃計画が再検討され、7月23日、ルーズベルトは「JB355」と呼ばれる文書に署名しました。その文書は、150機の長距離爆撃機を中国の国民政府軍に提供して、東京、横浜、京都、大阪、神戸を焼夷弾で空襲するという計画でした。真珠湾攻撃の5カ月前にルーズベルトはわが国への攻撃を命令していたのです。

しかも、この計画を推進した大統領補佐官ラフリン・カリーはソ連のスパイだったのです。しかしながら、この計画はヨーロッパ戦線の状況が深刻になり爆撃機をイギリスに回さざるを得ず、実行されませんでした。

その直後の7月25日にアメリカは国内の日本資産を凍結し、7月28日に日本が南部仏印に進駐すると、日本への石油輸出を全面的に禁止しました。そしてイギリス、中国、オランダの協力のもとでABCD包囲網で封じ込めを強めました。第一次世界大戦後に、侵略戦争を放棄しようと「パリ不戦条約」が日本や米国、英国、フランスなどの間で結ばれていましたが、この条約を推進した米国務長官フランク・ケロッグは条約批准を審議する議会で、経済封鎖は戦争行為ではないかと質問されて「経済封鎖は戦争行為だ」と答えました。つまりアメリカは日本に対して経済封鎖による戦争を仕掛けたのです。
ABCD包囲網がいかに強力な封じ込めだったかは、図を描くとわかります。

日本はアメリカとの戦争を避け、この状況を平和的に解決しようと交渉しており、石油全面禁輸から1週間後の8月8日、首相の近衛文麿はハワイでの日米首脳会談を米国務長官コーデル・ハルに提案しました。しかしルーズベルトはそのころ、大西洋上の軍艦で英国首相ウィンストン・チャーチルと大西洋会談を行い、大西洋憲章を発表しました。
この憲章では「領土不拡大」「国民の政体選択権の尊重」「強奪された主権・自治の返還」をうたっていますが、これがアジアの有色人種を対象にしていないことは、当時のアジアの植民地を欧米が全く解放していないことから明らかです。

1941年11月26日、アメリカは日本に対して中国大陸からの撤退などを求める最後通告「ハル・ノート」突き付けてきました。
アメリカは1940年から日本の外交暗号を解読できており、ここに至るまでの日本の内部情報は筒抜けで、日本の戦争回避の努力に対して無理難題を突き付けて追い込んできたのです。

こうして日本は追い詰められて1941年12月8日(日本時間)に真珠湾攻撃を実行しました。
もちろん、この攻撃の計画もアメリカは暗号解読によって事前に知っていたのです。
つまり、日本は長い時間をかけて、アメリカ領土(真珠湾)への先制攻撃をするように誘導され、自国の存亡をかけた自衛の戦争を開始させられた、ということなのです。

ソ連の暗躍

ハル・ノートは国務長官のハルが手渡したためそう呼ばれていますが、原案を書いたのは財務次官補ハリー・ホワイトです。ホワイトはJB355を推進したカリーと同じくソ連のスパイで、アメリカと日本が開戦せざるを得ないように受け入れ不可能な内容にしたのです。
(ホワイトがソ連のスパイだったことは戦後にわかり、下院に喚問された3日後に自殺)

ルーズベルト政権には約300人ものソ連への協力者が入り込んでいました。これはソ連のスパイが本国とやり取りした暗号電報を米軍が解読したヴェノナ文書が1995年に公開されて明らかになりました。

ルーズベルトは親中であるとともに親ソでもあり、共産主義への抵抗もなくソ連を承認しました。ルーズベルトは日本と米国を戦わせようというスターリンの謀略に動かされていたのです。

日米開戦前のソ連としては、ドイツとの戦いがあり、背後から日本に攻撃されることを恐れていたのです。これを避けるためにソ連は二つの工作をしかけていたのです。ひとつが日米の戦争で日本が疲弊し弱体化すること。もうひとつが日中の戦争で日本が疲弊し弱体化することです。

ルーズベルトが大統領になり、ニューディール政策によって雇用を増やすに連れ、労働組合が次第に大きくなり、その労働者たちの権利を拡大するために理論武装する学者が増え、それを伝え擁護するマスコミが台頭し、ルーズベルトの応援団が形成されました。このような共産主義的・社会主義的な思想と世論の誘導にもソ連のコミンテルンの力が働いていたのです。そして、アメリカのメディアは基本的に共産主義・社会主義を支持し、それを理論武装する学者も共産主義・社会主義を支持し、「日本が悪い」「中国は被害者」というプロパガンダによってアメリカの世論を反日に向かわせました。
この構図は現在のアメリカの民主党がそのまま受け継いでいるものと同じです。

もうひとつの中国=中国共産党の狡猾な動き

日米開戦前の中国といえば、第一に国民党・蔣介石による中華民国であり、前述したように、キリスト教に取り込まれることによって、アメリカのルーズベルト政権との親和性を高め、強大な支援を得て日本と戦いました。

一方で、ソ連のコミンテルンの指導のもとに誕生した中国共産党が活動していたのですが、蒋介石はこれを敵視して中国は分裂状態にあったのです(国共分裂)。

蔣介石は日本よりも中国共産党の方が脅威であるとする「反共主義」の立場から、中国共産党を殲滅寸前に追い込みました。しかし、父である張作霖を関東軍に殺された満州出身の軍閥・張学良は、共産党殲滅のための最後の作戦を指導するために西安を訪れていた蔣介石を西安に拉致連行し、国民党と共産党の再合作を要求し(西安事件)、国共合作の体制に移行し、日本との戦いが本格化します。

この当時の中国における日本の軍事行動を「日本の侵略」ととらえられることが多いのですが、中国共産党を背後で操っていたのはソ連であり、共産勢力による中国大陸への侵略と日本が戦っていた、ととらえることもできます。

ソ連は、蒋介石・国民党を日本と戦わせ、中国共産党の戦力は温存させ、日本の敗戦後の国共内戦において、共産党に大規模な軍事支援を行いました。
そして、蒋介石を追い出して、1949年に中華人民共和国の建国が宣言されました。
以降はアジアの広大な地域を中国共産党が支配するようになり現在に至ります。

ルーズベルトが蒋介石を支援していた一つの理由が「中国のキリスト教化」だったのですが、ソ連と連携した狡猾な中国共産党によって、その目標は達成できず、戦後にルーズベルトが非難される材料のひとつになりました。

ルーズベルトという人物

ルーズベルトは、アメリカを世界一の強国に躍進させた、という功績によって、今でもアメリカ国民に高く支持されています。しかし、冷静に考えてみると、ソ連を承認してアメリカ国内でのコミンテルンの工作を招き、政治の中枢に入り込まれて日米開戦を仕掛けたのがルーズペルトです。
さらに、ルーズベルト没後の戦後においては、ソ連の台頭を助長しアジアの混乱と共産化を招き、また、現在に至る中国共産党の覇権と巨大化の流れを「つくらされた」人物だ、ともいえます。

ルーズベルト政権の主張の根幹であった「侵略国の日本がアジアで紛争を起こしていて,日本を弱体化すればアジアは平和になる」という考え方は明らかに間違いであり、戦後すぐに中国は内戦になり(国共内戦)、世界最大の共産党国家である中華人民共和国が建国され、朝鮮半島やカンボジアなど、アジアのさまざまな地域において、ソ連の工作による共産化が試みられ、多くの人類の命が奪われました。

そしてベトナム戦争においては、アメリカ国民も泥沼の戦争に直接参加することになり、多大なる犠牲を払うことになりました。

「共産化」という新しい侵略方法によって、戦後のアジアに多くの紛争を起こしたのはソ連であり、それを助長したのがソ連のスパイに操られたルーズベルトだったのです。

参考情報

 

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